本当に苦しい状況の人は出てこない
2008年 09月 22日
それからいろいろ人生経験していくうちに教会だけでなく出かけたくても出られない人がたくさんいるのだということを実感する。
(私は出かけるのが好きなのですぐに出るが)
そういう状況にいる人は外には出てこない。私の目にはとまらないのだ。
なので普段は気にせず生活しているのが現実。
病気で苦しんでいる方、窓の外を見ても出られない方たち。心の病でカーテンを引いたままの人、外に出ようにも動けない方。引きこもったままの人たち。家族の介護に追われ自分のことまで出来ず出かけられない人。もちろん世界で起きている戦争中の国々、自由に外で遊べない子どもたち。独裁政権の中にありじっと我慢して飢えをしのいでいる人たち。祈りだけでは生きていけないなか国を出たくても出られない。
最近私は街を歩いていたりふと家の中にいるときこのような方たちが今同じ次元にいるのだ、実際にここで生活しているのだと感じて少し苦しくなる。
「すべてこの世のことはまぼろしです」
と時々思うのも事実。でも苦しくなるのも事実。
私に何ができるのか?やること言うことはすべて偽善か?
そんなことを考える前に出来ることをしよう、ちょっとのことでも。
暖かいご飯と寝るところがある私は、やはり飢えに苦しむ発展途上国の人達のことを心底理解できているかと問われると否です。
今でも強制収用所がある国があり、国家に翻弄されている人達がいるのも事実ですしそれが現実ですが、やはり他人事になってしまいます。
そこまでの規模でなくとも、私も自分が病気になったときは思いました。世の中のことはすべて自分が引き寄せていると言われるのを聞くたびに、お前はこの苦しみ知らないだろう。薬に頼らないで生きていけるなら私だってそうしたいし、拷問のような毎日をお前は知らないのに、したり顔で言うなよ、上から目線で言うなよと心の中で暴言はいてました。(^^;)
そんなもんです。結局人はわからないものです。でも想像して痛みを共有しようとする姿勢は必要だと思うのです。わからないけれどできることを少しずつやる。自分にできることは何かと考え手伝うことはできると思うのです。
偽善か?と問われたらそうかもしれませんが、それでも行動することに意味があると私は思っています。
私も理解はできませんが、そういう方たちがいることは事実だと認識しているだけです。ただメディアで紹介される時に私は痛みを感じ、これは何を意味しているのかと考えたりします。
それだけでも意味がありこの想いがたくさんの人に共感されるとやがては100匹目のサルのように世界が変化するのでは?(←妄想状態)と思っています。
一番大事なことは身近な人の痛みをわかってあげることなのかな、それが広がっていくのかな…って。
sakusaさんの日記を読んで、その言葉の意味にはっとしました。
ありがとうございます(^^)
私はどうにかこの世を楽しんではいますが、そうではない人たちもいて、その方たちは私の目には入ってこないということを感じています。
暗闇から明るいところに出られる日が一日でも早いことを祈らずにはいられません…